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管弦祭の行事

市立祭(いちだてさい)  旧暦六月五日

 管絃祭の始まりを告げる祭りです。かって宮島には、春、夏、秋と市が立っておりましたが、春(桃花祭)、秋(菊花祭)の市立は廃れてしまいました。そのうち夏(管絃祭)だけは今日まで続いています。昔は、上方役者の興行があったり、境内に露天が立ち並び大変賑わっていました。当日は、午前九時より、本殿で祭典と舞楽が奉奏されています。

御洲掘(おすぼり)  旧暦六月十一日

 大鳥居の内(御池)が、潮流で寄せられてくる砂で埋まってしまうので、御座船が通りやすくするために 宮島の対岸に住む人達が午前の干潮時に砂を掘って道筋を作ります。これは労働奉仕作業で毎年、数百人で行われます。神社はお礼に榊を授与します。榊は田のあぜに立てると害虫防止になると言い伝えられ、今は神棚で一家の守りとされています。

御船組(おふなぐみ)  旧暦六月十五日
 午前中の上げ潮で船が浮上するのを待ち、宮大工が棟梁となって町内の大工の助けを借り、三隻の和船を角材で横につなぎ御座船を組み立てます。午前中に尾形の組立てや飾り付けのすべてを終わらせます。
御試乗式(ごしじょうしき)  旧暦六月十五日
 午前中の潮に乗って、阿賀町の漕船が二隻、太鼓を鳴らし、勇ましい櫓拍子とともに大鳥居をくぐってやってきます。日没と共に御座船の提灯、雪洞に火を入れ、潮が満ちてきた時に神職一同が乗船します。阿賀町漕船一隻が水先案内をし、一隻が御座船の曳航をします。太鼓の鳴り響く中、采振り、櫓拍子、掛け声と共に御座船は静かに社殿を離れ、大鳥居をくぐり、沖合いで御座船を左に三回まわします。そして、船体と航路の確認を行い、大鳥居をくぐって客人神社前に戻ります。
御座船(ござぶね)
 御座船は昔、一隻の大きな船で、櫓も六丁ついており、自力で航行していました。現在は三隻の和船を横一列に並べてつなぎ、一隻の船として使います。また、櫓はついておらず、江波漕伝馬船と阿賀町漕船によって曳航されています。船の上には、板が敷き詰められ、さしずめ大きな舞台のようで、屋形が組まれ艫飾りをつけ、旗、幕、提灯などで飾りつけられます。 御座船で使われている和船は、古くから造船で栄えた倉橋島本浦で、1707年から船大工たちにより奉納されてきましたが、奉納が難しくなった大正十二年に「厳島管絃船倉橋御用講」をつくり、毎年、新造しては祭りの後に売却する方法(まだ和船が漁業の中で主流だった頃は、管絃祭で使った船は大変縁起が良いということで、珍重されていました)で継承してきました。 しかし、和船の需要が無くなり、それも難しくなったので、昭和三十七年から厳島神社が直接発注し、管絃祭専用の和船を持つことになりました。
漕船(こぎぶね)
 昔、管絃船は大きな船一隻で、櫓が六丁ついており、自力で航行し、祭りを行っており、漕船はありませんでした。時は元禄十四年(1701) 管絃船が地御前神社から宮島、長浜神社に戻る途中に暴風雨にあい、転覆寸前になりました。 その時、暴風雨を避けて船がかりしていた阿賀村の「岡野喜右衛門」の鯛網船と九州からの帰途、厳島神社に参拝しようとしていた江波村の「古川屋伝蔵」が伝馬船を降ろして、二次災害をもかえりみずに管絃船を救出しました。それ以来、阿賀と江波の両村が管絃船を曳航して祭りが行われるようになりました。また、江波村の方が先に管絃船に着いたので、祭りでは先頭で曳航することとなっています。阿賀の船は鯛網船であったことから現在でも六丁の櫓を用い、江波は伝馬船であったのでその形を残した救難船で十四丁の櫂を備えた伝馬船です。現在も管絃祭の御座船を曳航する役目は、呉市の阿賀漁協と広島市の江波にある漕伝馬保存会が引き受けています。